言の葉紡ぎのパラブログ

言葉で世界にかけ橋を。

器を割ったことを謝って感じた、ただ許される居心地の悪さと謝ることの意味

迂遠な書きもの #3

先日、良かれと思ってシンクに溜まっていた洗い物を片づけていると、うっかり手を滑らせて器を一枚割ってしまった。

その器は、ルームメイトの板前が数年をかけて集めたうちの一枚。割ってしまったことを正直に伝えて謝り、お詫びに食事をおごる旨を申し出た。

ところが、彼は「器は割れるもの」と言って特に怒ることも何かを求めることもなく、ただ手打ちにしてくれるという。

その言葉を受け、ほっと安堵すると同時に、ふと疑問が浮かんでしまった。

誰に対して、何のために謝っているのか

実は、彼がこのシェアハウスに食器類を持ち込む際、宅配業者の不手際でその半数近くが割れてしまった。

いくばくかの賠償金での和解が成立したとはいえ、数が揃っていてこその器も多数あったらしい。数年をかけて集められたそれらを揃え直すことは、もはや不可能に近いと。

そんなこぼれ話を聞いていたことも手伝って、「割れるものだから」という言葉そのままに許しを享受するのは、どうにも抵抗感があった。

ただ許されるだけの自分にも、何もしないということ自体にも、名状しがたい奇妙な居心地の悪さ感じてしまったのだ。

ほとんど反射的に、冗談めかして「そうだね、割れる器のほうに問題がある」と返し、すると冗談の通じる彼からは「おごってもらいます」との返事が届いた。

自分以外の誰かと共同生活を営んでいると、その気になれば「貸し」や「借り」にできなくもない些細な出来事が、結構な頻度で生じてくる。それが肉親であったとしても。

そのすべてを貸し借りの対象と見なしてしまえば早晩息が詰まるだろうし、常に損得勘定で動くような日常生活は耐えがたい。遠からず心が荒む。

だからといって、何でもかんでもなぁなぁで済ませてしまえば、それはそれで軋轢を生むことに繋がる。何かと気になってしまう人とそうでもない人の間に蓄積されていく不満を、誰がどう取り除けばいいのだろうか。いずれにせよ、心の荒廃を招く。

考えてみれば、とりあえず謝っておけば丸く収まることが多いのだから、謝ることとその受け入れによる帳消しという仕組みは、まったく理に適っているものだと感心する。

とはいえ――理に適おうが適うまいが、割れた器が戻らないことに変わりはない。その事実が、静かに眼前に横たわっている。

器に込められた想いや願いといった目には見えないものが、割れた刹那に霧散する。肉眼では認識できない極微細の破片とともに、永遠に失われていく。

世に送り出すまでにかけられた手間暇のすべて、持てる技と心を尽くした人たちの想い、やがて巡り巡って手に取り、今日まで大事にしてきた持ち主の愛着までも、破片とともに飛散させてしまったような錯覚に陥る。

単なる考えすぎで、そんな事実はないのかもしれないけれど、わからない。

それでも、いとも容易くこの手から滑り落ちていった器が脳裏に閃くたびに、後ろめたさがじわりと痛みを生む。

何かを壊してしまったとき、愛着が湧くほど長い時間を過ごしたものを手放すとき、活かすことができずに古ぼけてしまった何かを見つめるときに抱く、ただひたすらに切なくなるあの感覚を呼び起こしてしまうから。

数知れない食卓を彩り、誰かの心に明かりを灯すはずだった器は、紛れもなく誰かの人生の一部であり、また命の一部でもあったのだから。

怒りの有無とその矛先、感情の行方とその高低、精神的価値。

本当のところは、当の本人にしかわからない。相手の良心に期待して出方を窺っているのかもしれず、仮に隠したり、誤魔化したり、開き直ったりすれば、途端に烈火のごとき怒りを露わにしたのかもしれない。

謝るという行為には、大きく分けて2種類ある。一つは相手に溜飲を下げてもらうためのもので、もう一つは、自分の心に刺さった棘の痛みを和らげるためのものだ。

持ち主の求めを超えて謝ろうとしてしまうなら、それはたぶん、いやきっと、後ろめたさに耐えられなくなってしまう自分を守るためなのだろう。

壊してしまったものに携わったすべての人へ、その想いと願いに触れて、謝りたいのだ。