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言の葉紡ぎのパラブログ

言葉で世界にかけ橋を。

クラウドファンディングを恩や信用と紐づけることで生まれてしまう息苦しさ

迂遠な書きもの

迂遠な書きもの #8

クラウドファンディングのプロジェクトがタイムラインに流れることが増えた。

元々の知り合いからその先の先まで、様々なプロジェクトが生まれており、個人的にも支援済みのプロジェクトは増えている。行動を起こして広く資金調達を行い、実現しようとする姿勢は素敵だ。

そんなクラウドファンディング関係で気がかりになっているのが、「恩」や「信用」に結び付ける類の喧伝だ。これにはしばらく前から結構な違和感を覚えており、その手の論調が特定の界隈に留まらず標準化されてしまうと想像したら、率直に言って勘弁してほしい。

内輪色の強いプロジェクト特有の話なのかもしれない

濁しても仕方がないので端的に表現すると、前述の恩や信用に結び付けての喧伝は「接待クラファン」の素地を作ってしまう。これは地味にエグい。

接待クラファンというのは文字通り「接待然としたクラウドファンディング」を意味する造語で、つい今しがた考えた。プロジェクトの内容またはプロジェクトオーナーその人に対してさほど支援したいとは思っていないのに、支援しなければ関係や体裁などの都合でまずいという後ろ向きな動機による支援を指す。

今後の関係や体裁を気にして支援(参加)をしてしまう、という点では、気乗りのしない付き合いの飲み会や強制に近いカンパに通じるものがある。

仮に「クラウドファンディングの結果=その人が積んできた恩や信用の顕れ」なのだとすれば、支援をしない・されないという事実が「恩や信用がない」という意味を持たされてしまう。これは穏やかではない。

この理屈は実に妙で、一理はあってもすべてではない、どうにもズレた感覚に思える。ところが、現実に「自分で期待していたよりも信用を得られておらず、ショックを受けた」と肩を落として心境を吐露していた人がいたわけだ。

恩があろうと信用していようと、それが「今回の」プロジェクトの支援として結びつくかどうかは、本来ならば別の話だ。ところが、困ったことに恩や信用と支援を結び付けた喧伝によって、支援者側の真意を無視して歪むことがあり得た。これはまずい。

プロジェクトオーナーのことを大切に思うからこそ苦言を呈したり、支援を見送るという決断もあるだろう。局所的な価値観の相違によって今回は支援しかねるのかもしれない。内容を問わず支援することが必ずしも恩返しや信用の証になるとは限らない。

恩や信用という言葉には、支援をしなかった・されなかったという単純な事実によって負い目や引け目を感じさせてしまう力が秘められている。それが意図せざるものであったとしても、だ。

仮にプロジェクトオーナーが「恩や信用があっても支援とは別、内容と人による」と考えていたとしても、「支援をしないと悪く思われてしまうかもしれない」という不安を受け手全員の心から完全に消し去ることは難しい。

支援をしていないことで気まずい思いをする場面は、現実にある。だからといって、それを回避したいがために支援をするというのは、それこそおかしな話になってしまう。結局のところ、恩や信用を引き合いに出すという行為そのものが、およそ好ましい類のものではないわけだ。

それに言及したが最後、雲行きが怪しくなる。単に貸し借りの清算を迫る行為へと変質することになり、もはや支援とは別の何かだ。本当に恩や信用によって成される支援なら、返されるべき恩や寄せられて然るべき信用があるのなら、それを声高に喧伝して回ること自体が不自然極まりないのだから。

誤解を避けるために一応付け加えれば、クラウドファンディングで支援を募ること自体は何ら問題だとは思っていない。むしろガンガン募集して、バンバン実現してしまえばいい。冒頭にも書いたように、実現しようとする姿勢は、素敵だ。

そういうわけで、クラウドファンディングに恩や信用という言葉が舞い踊るほど、支援しようという純粋な気持ちが働かなくなってしまう。それが残念に思えてならない。