PARABELL LIFE

ゆる哲学と丁寧の“Co民家”を運営するフリーランス・パラベルのポータル×コラムブログ

絶対に嫌な何かを避けるためなら、人生のすべてを賭けるのもありだ

人生を賭すほど嫌ならば

誰にでも、絶対に嫌なことや諦めたくない現実、辿りたくない未来……そんな「絶対に避けたい何か」の一つくらいはあるはずだ。

その何かを避けるためなら、人生のすべてを賭けて全力で拒絶するのもありだろう。

それは夢を叶える道とは違い、どうしても後ろ向きな印象を与えてしまう。そうではあっても、実は誰もが求めてやまない道であることも、また事実だ。

絶対に嫌だから、絶対に嫌なのだ

話はこの上なく単純明快だ。

そこには論も理屈もありはせず、ただ純粋な希求が、確かな願いがある。

その人が「絶対に嫌だ、絶対に諦めたくない」と強く願うなら、それ以上の説明は求めるべくもないのだ。

心が嘘偽りなくそう叫んでいる以上、外野から寄せられる、あるいは浴びせられるであろうあらゆる言葉は、等しく空虚で、無力なのだから。

嫌なものは嫌であって、その程度がどれほどのものなのかまでは、結局のところは本人にしかわからない。

絶対に避けたい何かをどう扱うかは、誰もが自分の人生を生きる上では避けられないテーマであり、重要なのはそこだ。

さて、物は試しに今から自問自答を始めてみよう。

あなたにとって「絶対に避けたい何か」はあるのか、それが何なのかを。

それは夢より強固な叶えたいという意思

絶対に嫌だという強い意思は、裏を返せば「絶対に叶えたい」とほぼ同種のものだ。

こう表現すると、いわゆる「夢」を連想する人が少なくないだろう……が、この場合は同じ叶えたいでも、夢とは根本的に異なる。

夢は人が一方的に見るものであって、自ら望み、いつか叶えと願いながら追いかけるものだからだ。夢のほうから「追いかけろ!」と強いることはない。

夢を叶えるために人生のすべてを捧げられる人が少ないのも、そういう理由による。

夢追いの熱が冷めてしまえば、夢は終わるだけだ。

対して、人は本当に嫌なことから逃げるためなら全力を尽くしやすい。自分にとって嫌なことは現実感を伴いやすいし、何より夢とは違って向こうから迫ってくる。

現実という鉄槌にたやすく砕かれる夢とは違い、迫り来る現実に対する忌避意識が生み出す必死さは、生半可なものではないのだ。

絶対に避けたい何か――絶対に嫌なことや諦めたくない現実、辿りたくない未来。そんな選択肢ばかりなら、人生のすべてを賭けても、断固として拒絶を貫くのもいいだろう。

だから、そうだ。やってしまえ!

絶対に嫌な何かを全力で回避していると、理想の暮らしを手にしやすい。

なぜなら、そこには絶対に嫌なことや諦めたくない現実、辿りたくない未来などは、当然ながら存在していないからだ。

華々しい夢までは叶わずとも、少なくとも苦痛と苦悩にまみれた絶望的で空虚な暮らしはそこにはないはずだ。ありふれた平穏な暮らしが、どれほど貴重で価値のあるものか。

だから、そうだ。断固として拒絶してしまうのだ。

今この瞬間から、絶対に嫌な何かを避けるために舵を切ってみればいい。

今の人生に嫌なことがあるなら、諦めたくない現実があるなら、辿りたくない未来が見えているなら、拒絶すればいい。

全力で、人生を賭けて、この先の未来が少しでも望むものへと近づいていくように。

人生に、愛すべき時間を積み重ねていけるように。

最後に、もう一度伝えよう。

絶対に嫌な何かを避けるためなら、そうすれば生きるに値する人生へと変わるなら、砕かれた可能性の欠片だけでもあると、信じられるなら。

それなら、人生のすべてを賭けてでも、全力で拒絶するのもありだろう。