PARABELL LIFE

ゆる哲学と丁寧の“Co民家”を運営するフリーランス・パラベルのポータル×コラムブログ

人に丁寧であれなかった過去の自分を思い出して、軽く死にたくなる

常に丁寧であればこそ

他者に対してどう接しているか、その態度は当人の人間性を表す重要な指標となる。

例えば、世の中にはコンビニ店員という仕事を低く見て、横柄な態度を取ってもいいと思い込んでいる人が少なくない。

我が身を振り返れば、昔は身近な人に不遜な態度を取ってしまうことがあった。死にたくなる。そんな自分を俯瞰するにつけ、同じく軽く死にたい気持ちになった記憶もある。

職業フィルタリングの浅ましさ

職業に貴賎なし――そうはいっても、職業的価値は社会に対する貢献度ではなく、個々人のイメージで左右されるのが現実だろう。

コンビニ店員よりも大企業の正社員、汚水処理業者よりも経営コンサルタント。そういう具合に、社会的地位の高低はイメージ基準で判断されてしまう。

実情に沿うならば、汚水処理業者がいなければ田舎のトイレ事情は混迷を極め、生活に重大な支障をきたすことになる。

経営コンサルタントが無意味とは言わないし、その活躍によって業績が上向く事業者がいるのは事実だとしても、いなくなっても本質的に困りはしない。

これが水商売や性産業ともなれば、それだけで唾棄すべきとでも言うかのような、見るに堪えない傲岸不遜な態度を取る人もいる。

何となく底辺っぽいとか、何となく凄そうだから。

そんな基準ともいえない薄ぼんやりとした基準で、大して知りもしない誰かに対する態度を決めてしまう。残念ながら、それは人として狭量だと言わざるをえない。

人は他人も自分もよく解ってはいない

人と接するときは、相手が誰であってもとにかく丁寧であることを心がけるといい。

どういう仕事をしているか、社会的地位がどの程度なのかなど、接する態度を決めるための判断基準に含めないことだ。

自分と比較して上下を決めるなどは言わずもがな、もってのほかだろう。

そもそも、人は他人のことなどほとんどと言っていいほど理解できてはいないのだ。

それが人生の伴侶や家族であっても、長い付き合いの果てに知るところが多かろうはずの親友だとしても。

あまつさえ、自分自身のことですら定かではない。

それなのに、悲しいことに多くの人は自分と相手を軽々しく比較し、上だ下だと決めつけて接する態度を選んでしまう。

人に対して横柄であることが一体どれほど愚かしいことなのか、ようやく気づく頃には時既に遅しだ。積み上がった失せものと後悔は、数えきれないほどに膨れ上がっている。

いっそのこと誰に対しても丁寧であればいい

息をするように、誰に対しても丁寧であるといい。

あなたがいつも通っている、あのコンビニの店員を思い浮かべてみよう。

もしかすると、その人はあなたには及びもつかない理知を秘め、大いなる可能性を湛えて新事業の準備を進めているさなかなのかもしれない。

あるいは想像を絶するような苦難の人生を歩みながら、それでも悪事に手を染めることなく必死に今を生きている、そんな美しい人物なのかもしれない。

人のことなど、わからない。

そういう前提に立って、等しく丁寧であればいい。

誰しも、ふとしたきっかけで過去の一幕を思い起こす瞬間があるはずだ。

そんな折、「あの人には丁寧に接していなかったな」と自戒の念を抱いてしまい、軽く死にたい気持ちになってしまう。

丁寧であるに越したことはない、それはいつ誰に対してもだ。

他者に対して丁寧でありさえすれば、それだけであなたという存在価値は高いのだ。