PARABELL LIFE

ゆる哲学と丁寧の“Co民家”を運営するフリーランス・パラベルのポータル×コラムブログ

社会は理不尽だと言いながら理不尽を強いてくる連中が、心底嫌いだ

理不尽社会と心の時代

社会は当然に理不尽なものだと、今まで何度耳にしてきたかわからない。

誰かがそうと決めたわけでもなく、また望んでもいないのに、多くの人がそういうものだと諦めているのはなぜだろう。

自然界という絶対的な理不尽に対抗するかのように急速な進化を遂げ、文明の力で数多の理不尽を退けてきた人類は、しかし未だに同種内における理不尽を克服できていない。

社会は理不尽なものだから?

社会は理不尽なものだと、そう言って自らの理不尽を正当化する輩が後を絶たない。

事実、社会は理不尽だろう。

社会構造に深く根を張る学校や会社はおろか、社会の最小単位といわれる家庭までもが理不尽のるつぼだ。

あらゆる社会集団でハラスメントが横行し、人が集まるところにはほぼ確実に何かしらの理不尽が潜んでいると言っていいほどだ。

この平和な日本にあってもそうなのだから、残念ながらやはり社会は理不尽で、世界は輪をかけてそうなのだろう。それはもう、身に染みて知っている。

あらゆる事実がこの社会は理不尽だと告げていて、否定のしようもない。

しようもないが、もうそろそろ過去の話にしてもいいはずだ。

これまで理不尽の歴史を重ねてきたからといって、これからも理不尽であり続ける必要があるのだろうか?

社会は理不尽なものだから、と消極的にでも理不尽であることを肯定し続ける限り、この社会にあふれる理不尽の絶対量が減る日は訪れないのだ。そんな話を認めたくはない。

理不尽だからこそ、抗う旗を振れ

俺は理不尽がとても嫌いだ。

とてもというか、非常にというか極めてというか、とにかく嫌いなのだ。

概念レベルで嫌悪してならない。もちろん、不条理も同じだ。

理不尽は人を殺す。文字どおりに殺すこともあるし、そこまでいかずとも心を殺す。

瑞々しい輝きに満ちていた心が、どうにか今を生きようともがく心が、理不尽に晒されるうちに淀み濁って色を失い、やがて朽ちてしまう様を見るのは耐えがたい。

心が押し潰される痛みを、病み衰えていく絶望的な焦燥感を、傷んだ心を引きずりながら生きる、あの永劫に続くかのような苦悩を想像できるだろうか。

人の心は、思いのほか脆い。

いともたやすく亀裂が入り、驚くほどあっけなく砕けていく。

砕けた心の修復には相当な時間を要し、植え付けられたトラウマの払拭とまでなると、簡単にはいかない。

にもかかわらず、ただ理不尽であるだけでは罪に問われることはほとんどないのだ。

社会は理不尽、なるほど嫌というほど知っている。

いつの時代も、そうやって平然とまかり通ってきたのだろう。

けれど、事実として理不尽だからこそ、当然だと言わないでほしいのだ。

たった一人でもいい、無力でも構わない、理不尽に抗う旗を振っていてほしいのだ。

心の時代に、優しい世界は拡大するか

自然界における弱肉強食の掟から解き放たれて、人類史は次の段階へ進みつつある。

仮にそれを「心の時代」と呼ぶとする。

これほど人の想いや願い、総じて愛が重視された時代は未だなかったはずで、そんな時代にいつまでも理不尽であり続けようとするのは大きな間違いだ。

そろそろ社会は理不尽でなくなってもいいだろう。

権力を笠に弱者を搾り上げ、多数派が少数派をなぶり、群衆は日々根も葉もない噂で誰かを追い詰めながら、ありもしない有名税の取り立てに精を出している――。

そんなことをしなければならない理由がどこにあるのかも、その行いにどれほどの価値があるのかも、俺にはまったくわからない。

本当は誰もが優しい世界を望んでいるのだと、そう信じたい。

社会が理不尽なものであるよりも、優しいものであってほしいはずだと。

理不尽なものだと思うがゆえに理不尽であり続けてきた社会は、優しくあれと願えば優しくなっていくのだと、どうか信じさせてほしいのだ。

例えば誰かの優しさに触れたとき、皮膚の向こうに温かさを感じたり、大切な人に喜ぶ顔を咲かせたとき。

そういうときに芽生える、あの心の温度を知っているはずだ。

いくら言葉を尽くそうとも表現しがたい、あの素晴らしい感覚を知っているはずだ。

だからそう、社会を変えろ。

いつかの未来に笑えるように、この世界に生きる誰もが等しく、僕らの社会は優しいものだと胸を張って言えるようになるために。