PARABELL LIFE

ゆる哲学と丁寧の“Co民家”を運営するフリーランス・パラベルのポータル×コラムブログ

自分を馬鹿だと認めると、世界が昨日よりも美しく目に映る

誰もがみんな馬鹿だから

極論めいたことを言ってしまえば、全員、自分を馬鹿だと認めるといい。

世の中は知らないことであふれているし、目の前の相手のこともわかっているようで、実のところはそうでもないのだ。

考え方は目眩がするほどたくさんあって、議論のさなかで回る思考の程度なぞ、ごく一部の天才を除けば高が知れているのだから。

利口という名の攻撃性向

なまじ自分を利口だと思っていると、他者に対して攻撃的になりやすい。

自分は利口なのだから、相手の言い分が間違っているに違いない。相手は馬鹿でものを知らない、自分が教えてやろう。

そんな残念極まる思考回路が走りやすくなるのだ。

その不寛容で傲慢な態度の根拠といえば、大抵は「自分は人より利口なはずだ」程度の浅薄な思い込みだ。

その上よくよく話を聴いてみると、利口なはずの側が支離滅裂な妄言を吐いていたりするから、まったく手に負えない。

そもそも頭がいいのがそんなに偉いのか、という話でもある。

頭がいいと優位に立てるのは間違いないが、それでも数ある特徴の一つでしかない。

誰もがみんな、あまりにもちっぽけだ

とかくこの世は、複雑怪奇にして単純明快で、面妖な作りになっている。

難しく考えるほど答えからは遠ざかり、かえって何も考えないほうが真理に近づくこともある、そういう世界を僕らは生きている。

この世界にあっては、人一人程度は取るに足らない存在で、それでいて替えの利かない唯一無二でもある。

僕らは、あまりにも矮小だ。

長い人生で蓄積される数多の知識や経験も、世界の事象全体からすれば小さじにも満たない情報量だろう。

人というのは、ちっぽけな存在だ。狂おしいほど愛おしい、小さきもの。

それぞれの優れた部分を寄せ集め、ちっぽけなりにどうにか生きている。この星の表面に社会という薄膜を張り、かろうじて生存圏を確保しているのだ。

自分は利口だと小さな世界で粋がろうとも、外側の世界にはより賢い誰かが存在し、いつの時代の誰であっても、世界に多くのわからないことを残したまま寿命は尽きていく。

馬鹿になって眺める世界は、昨日よりも美しくなる

自分が馬鹿だと認めてしまえば、他者を馬鹿にする気にはならなくなる。

相手の優れた意見をハナから切り捨て話を被せ、聞く耳も持たずに封殺するような暴挙もなくなるだろう。

このまま馬鹿では終わるまいと、学ぼうという気にもなるかもしれない。

人はその姿勢を謙虚と称し、馬鹿の自覚は美徳へ昇華されていく。馬鹿にできない。

本当のことを言ってしまえば、誰もがみんな馬鹿なのだ。馬鹿の種類に違いはあっても、馬鹿なことには変わりはない。

ところで、あなたには馬鹿の自覚があるだろうか?

もし自分を馬鹿だと認められていないなら、騙されたと思って馬鹿になるのがいい。

馬鹿になって眺める世界は、きっと昨日までのそれよりも広く大きく、そして美しいものに見えるはずだ。