PARABELL LIFE

ゆる哲学と丁寧の“Co民家”を運営するフリーランス・パラベルのポータル×コラムブログ

誰かのために――心からそう願ったそのときに、本気は開花する

それは誰がためにと花開く

本気になった覚えがあるかどうかを、少し考えてみてほしい。

あるとしたら、それはいつ頃のことで、どんな理由だったかを思い出せるだろうか。

ひとしきり記憶の検索待ちを経たところで、本気というのは定義も測定も難しいものだと気づくかもしれない。

誰かを助けたいと心の底から願うとき

乱暴な分類をするなら、本気は2種類に分けられる。

ここではそれを、自分のための本気、誰かのための本気に分けてみよう。

本音を漏らせば、俺は自分のために本気になれる人のことを羨ましく思う。なぜなら、俺にとってはそれがどうにも難しいからだ。

内なるエネルギーが際限なくほとばしり、灼熱とも表現すべき超熱量が「自分のため」のベクトルに流れた経験は、残念ながら今までほとんどなかった。

良く言えば無欲、悪く言えば枯れ木のようなもの。

ところが、いくつかの条件が揃った「誰かのため」となれば、話は別だ。

目まぐるしい思考の奔流と正体不明の行動力が沸き起こり、普段なら「やめとけよ」と諫めるような決定でさえ平然と下す。もちろん実行だ。

両手にお縄を頂戴すること以外なら、いささかの躊躇もなくやってしまうのではないか……と恐ろしくもなる。

そんなふうに、本気が開花する。ほんの束の間、本気の本気を纏うのだ。

ただし明確な自覚を伴いながら本気の本気が目を覚ますのは、これまた難儀なことに「誰かのため」を願ったときでもわりと特別なケースで、常にそうなるとは限らないのだ。

誰かのための本気が、ときに限界を破壊する

誰かのための本気が開花すると、それまで心を縛っていたあらゆる制約が消し飛ぶような感覚を得る。ランプは、オールグリーン。

そう、「全部やれ」になる。

ある種の“キレている”状態に近いのかもしれない。

終わりの見えない「できない理由」探しを続ける思考回路は、一転して「やりきる方法」を探し始め、損得勘定は即座に蒸発する。

目指す結果に利益を求めず、いかなる不利益を被ることも厭わなくなる。

たとえ利用されているだけでも、用が済んだら見向きもされずとも、その行いで新たな敵を作ろうとも、それこそ人生が傾いたって構わない。

脳が煮え返るほどシミュレートを重ねた果てに待っているのは、どうしようもなく単純明快で、純粋で、だからこそ抗いがたい、そんな美しき至上命題なのだから。

上等だよ、だからどうした。

いい歳こいて、そんな頭の悪く青臭い結論しか弾き出せない。

そんな自分にシビれて、うっかり、好きにもなる。

何を差し置いても、未来のいくつかと引き換えようとも、願いをかけた「誰か」の未来がほんの少しでも昏いわだちを逸れるなら。

ただそれだけを叶えたい、そんなひたむきな願いこそが限界を砕くのだ。

限りある命の時間をそのために投じる行為は、ほとんど狂気と呼んでもいいだろう。

本気で生きるのは、存外難しい

ただ漫然と生きていると、本気が何だったのかもわからなくなっていく。

出さない本気は、存在しないに等しい。それが筋肉と同じように細り、やがて失われていくものだと知るのは、いつか必要とする日が訪れたときになる。

とはいえ、こと現代社会では本気で生きるのも存外難しいものだと思う。

本気を出さずともそれなりに生きていけるようにデザインされた社会では、本気を出さない理由に事欠かない。

その上、下手に本気を出そうものなら寄ってたかって潰されたりする始末だ。急に本気を出せと言われても、困惑してしまう人が少なくないのはわかる。

もし自分のためには本気になれないなら、誰かを助けることを意識してみるといい。

理由や意味はなくてもいい。

損得勘定も必要ない。利益不利益は些末なものだ。

それで何かが変わるかといえば、変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。

仮に変わったとして、それが良い側になるか、それとも悪い側になるか、それもやってみるまではわからない。

それでも、試してみる価値はあるのだ。

これほど生を感じられることは、まずほかにはないのだから。