PARABELL LIFE

描いた「理想の暮らし」は、自分の力で組み立てる ―― そんなフリーランス・ライフ・ログ。

生きるための意欲を死滅させ、熱をも失わせる消極的な希死念慮を今も切り離せない

消極的な希死念慮の難問

ここ数日、ブログ記事を書けずにいた。これはそのことについての独白であり、人生上の重要な課題に対する吐露でもある。

わりと残念な育ち方をしたことに起因してか、俺には「苦痛は嫌だけど、寝てそのまま目が覚めない死に方ならいい」と本気で願っていた時期があった。

思い返せば、20代前半に会社を鬱退職してから数年間続いた鬱ニート生活中に、その気質が強化されてしまった感が強い。

俺には年子の兄がいて、兄にも似たような感覚があると聞いている。俺とは違って事業が軌道に乗りつつあり、妻子もあるというのに、だ。残念な似方をしてしまったと思う。

問題は、これが過去形ではなかったという事実、それとこうして気づいて認識してしまった以上、もはや目を逸らせないという現実だ。由々しき事態だ。

いや、気づいてはいたのかもしれない。ただ直視を避けていただけで……。

現在進行形どころか基盤と化しているらしい現実を鑑みると、途方に暮れてしまう。

消極的な希死念慮、それは「生きる」に対して熱を失うこと

死ぬなら死ぬでいいと思う、とはいっても何でもありかといえば、もちろんそんなことはない。何でもありならとっくのとうに死んでいて、この記事は書けていない。

苦痛は嫌いだ。スプラッタな現場を残したくはない。人にもたらされる死も御免被る。とんだ甘ちゃんだ。我ながらどうしようもないと思う反面、ごく当然の希望だとも思う。

積極的な行動を伴うわかりやすい自殺願望にはほど遠く、早く死にたいと強く願っているわけでもない。単に「生きる」に対して熱を失う、といった感じだ。

消極的な希死念慮と呼ぼう。

気を抜けば、消極的な希死念慮に手足を絡め取られ、身動きを封じられる。

やりたいと思っていたはずの何かや、これで生きていくと信じたはずのものまでも、跡形もなく霧散してしまう。ほんの少し前までたしかに胸を灼いていたはずの情熱も、ほどなく余熱すら残さずに消えていく。

転じて、俺には生きていくために必要な活動、つまりは稼ぐことへの意欲が足りない。熱を保てない。稼ぐために動き出すことが、俺にはことのほか難儀に感じられてしまう。

そんな俺でも、喜怒哀楽の持ち合わせはあるし、感受性は豊かだ。

それだけに、己のこの有様をつらいと感じてしまう。不感症ならまだ楽に違いない。

名状しがたいこの感覚、伝わる気はしていない。伝わらなくとも構わない。

たとえ誰にも伝わらないとしても、こうして発しでもしなければ、頭がどうかしてしまいそうなのだから。

目的が「稼ぐため」だと、行動する意欲も熱も保てない

ブログで稼げるようになろうと一念発起して、人に支援まで頼んで試みた。

その結果がこの有様だ。今まさに書いている、人生上重要で複雑な意味を含みながら、それでいてどうしようもないこの記事なのだ。

いわゆる「記事」とは毛色の違うプロフィールなども含めると、これで合計31記事目になる。たかが31記事、されど31記事。どうにかこうにか更新を続けた結果、悟った。

パラベル

収益目的でブログを書き続けるのは、俺には無理だな。

稼ぐために記事を書きたい、とはこれっぽっちも思えなくなってしまった。

稼ぐために、という考えを念頭に置くと、意欲が死滅してしまう。

目に見えてPVが積み重なっても、多少の収益が発生していても、そもそも生活のために稼ぐ必要があるとわかっていても、そうなってしまう。意欲を、熱をまるで保てない。

何しろブログ以前で稼ぐこと自体に意欲や熱を保てないのだから、当然だ。

皮肉な話ながら、書いている本人の迷いや悩みとは裏腹に、ブログはそれなりに順調な推移を見せている。

収益はまた別として、実質的に更新を再開した06月06日からのPVは出だし好調だ。

  • 06月06日~30日:7,302PV
  • 07月01日~16日:4,182PV

と、過去の積み重ねを手放してほぼ最初からやり直したブログにしては、十分といっていい好成績を出してくれている。

先月は小バズ分が6,000PVほどあるとして、今月の実績値に絞ってみると、

  • 平均ページ滞在時間:04分04秒
  • 直帰率:81.86%
  • 離脱率:72.62%

意外とPV以外の指標も悪くはない。やはり体験ベースの記事は強いらしい。

明らかに読んでもらえているのがわかるし、これ自体はとてもありがたい。このまま改善しながら続けていければ、それなり以上の結果を出せるはずだと期待を持てる数字だ。

ところが、この前提があっても稼ぐためだと考えるとダメになる。途端に気力をすべて削がれてしまい、意欲は湧かず、熱は冷めたままで再燃の気配もない。

特に苦しいのが、収益を生むためのリンクコードを生成して記事に埋め込む作業だ。あれをやっている間中、俺は一体何をやっているのだろうかと空虚な気持ちに支配される。

そうしていともたやすく目論見は破綻し、描いた青写真は白紙に戻るのだ。

稼げるようにならなければ、動かなければ、近い将来に待っているのは「詰み」だ。

それがわかっているのに、稼ぐために記事を書く気にはなれない。もっと言えば、ブログ以外でも行動を起こしたいと思えない。どうにも、気力が息をしてくれない。

稼ぐために必要とされる記事の質も更新頻度も、これでは確保できない。絶望的だ。

結果的に生きていける暮らしをぼんやり夢見ている

稼ぎを目的に自分のブログを作るのは、俺にとっては禁忌そのものだった。

本当は、試す前からわかっていたことだ。過去に何度も失敗を重ねてきたのだから。

あくまで作品としてのブログであって、仮に収益をもたらすことがあっても、それは結果論でなければならなかった。そんな法はないにしても、俺にとってはそうだ。

稼ぎのためとなると、どうしても消極的な希死念慮にかき消されてしまう。俺が気力に裏打ちされた意欲を発揮でき、熱を保てる条件は明確に決まっている。

誰かを幸せにできて、自分としても嫌ではなく、やって良かったと思えること。それが好きなことならもちろん申し分なく、収入は結果的に得られる程度で構わない。

過去に継続できていたことをいくつか思い返してみれば、それらは「生きるための収入を結果的に兼ねていた」だけだった。

何のことはない、運良くしばらく継続できていたことがあっただけの話だ。そういう何かを失っていた間は、ありがたくも申し訳なく、誰かに助けてもらっていたにすぎない。

そうやって、今まではほうほうの体で何とか生きてきた。

消極的な希死念慮を抱えながら。

本当は、ずっと前からわかっていた。忘れるはずもなく、直視を避けていただけだ。

収入のための「やらなければならない」が主体だと、どうしても続かない。

やらなければ生きていけないというなら、食いっぱぐれも仕方なしと思ってしまう。ある意味では、破滅願望にも似ている。

自分が生きるため。

俺にとって、それは行動の源泉にはなりえない。徐々に追い詰められていく現実に焦りはしても、追い詰められていく自分をどうしてか冷めた目で見てしまうからだ。

例えるなら、緩慢ながら死に向かっているような感じだ。

誰かを幸せにできて、自分としても嫌ではなく、やって良かったと思えること。それが結果的に収入をもたらしてくれる、そんな暮らしをいつかの未来に実現できるだろうか。

密接に関係し合う生き方の解法を、今はまだ見失ったままだ

ブログは言葉で自分の世界を投影できて、必要なら見た目と組み合わせて表現できる。多少の勉強さえすれば、あらゆるメディアとの連携も思いのままだ。夢がある。

だから俺はブログが好きだ。やめたいとは思わないし、むしろ長く書いていきたい。

かといって、稼ぐために記事を書き続けるのは、今はもはや不可能に近い。毎日書きさえすれば確実な支援が約束されている状態であっても、できなかったのだから。

さて、俺はこれからどう暮らしていこうか、どう生きていけばいいかを悩んでいる。そして迷ってもいる。

暮らしと生き方、働き方と稼ぎ方。

密接に関係し合うそれらの解き方を、今は見失っている。

自分のすべてが不幸だとは思わない。むしろ、恵まれていたとさえ思える部分も、十分にある。問題は異常なほどの不器用、そしてスタートラインを引くのがいつもネガティブの底から、というところだろう。

人生は、決断して動きさえすれば思いのままに変えられる。結果がどうなるかはまた別の話だとしても、行動までなら自由意志の赴くままだ。どうとでも、望むようにできる。

そうとわかってはいても、その根源が欠落しているとしたら、決断と行動を導く源泉をも見失っていたら。一体何を的と見て、どこに標を立てれば進んでいけるのか。

この消極的な希死念慮を切り離し、呼吸の止まってしまった気力を蘇生させる方法を、俺はまだ知らない。

当面の間、この問題にかかりきりになる予感がしている。