PARABELL LIFE

描いた「理想の暮らし」は、自分の力で組み立てる ―― そんなフリーランス・ライフ・ログ。

すべての人へ、どこにでもいるあなたへ。ネットは現実そのものだと直視してほしい

どこにでもいるあなたへ

今朝、珍しくnoteに記事を投稿しました。

随分前にリセットして以来まったく書いてこなかったアカウントですが、編集部のおすすめに掲載されたこともあってか、それなりに反応をいただいています。

物書きの端くれ中の端くれとして、ありがたい限り……とは、まったく思えません。

別件でなら手放しで喜びたくなる展開ですが、この記事を書くに至った真意を鑑みると、到底その気にはなれません。

察しのいい方なら既にお気づきだとは思いますが、この記事はつい先日起きたばかりの痛ましい事件、すなわちブロガー・Hagex氏の刺殺を受けて筆を執ったものだからです。

この事件に関して、ブログやnoteなどのいわゆるストック型メディアに何かしら書いて残すつもりはありませんでした。当初はたしかに、そのつもりでした。

時事ネタのようには扱いたくないし、そんな意図がなくとも、そう思われる可能性は残ります。今更俺が書くようなこともありはしないだろうと、そういう心境もありました。

ただ、一度は書かないと決めたはずなのに、ふつふつと湧き上がる積年の「想い」のような奔流を封じ込めることはついぞ適わず、まずは曖昧なコラムという形でnoteへの投稿を決めます。

そうして生まれたのが、先の記事でした。

このブログ記事では、一転してnoteには含めなかった正直な私見を綴っていきます。

Hagex氏に対する個人的な印象とnote記事の真意

正直に言えば、Hagex氏に対する俺の印象はあまり良いものではありませんでした。

事件後、現実での氏を知ると思しき多くの方が、追悼とともにその人となりについての高い評価を綴る記事を公開されています。

それらとは正反対の印象を俺が抱いているのは、なぜなのか。

その最たるものは、やはりというか、生前のHagex氏が運営していたブログの表現スタイルに由来します。

いささか攻撃的で、特定個人を取り上げて面白おかしく書き立てる。少なくとも2年ほど前に読んだ最後の時点では、そう映る内容でした。

書き方ではなく内容の正当性はどうか、という話は脇に置いておくとして、「あえてあの手の表現を選んでいるのは、本人の性質によるものだろう」と俺には思えたわけです。

理由は単純明快で、ネットは現実そのものだからです。

現実のHagex氏がどういった人物だったにしろ、俺が認識していた氏は本人のブログ(のごく一部の記事)に表れていた人物像でしかなく、それ以上でも以下でもありません。

人によってHagex氏に対する評価や印象は異なるとしても、読者のうちの多くは現実の氏についての詳細を知ることもなかったはずです。この事件が起きるまでは。

現にこうして、亡くなるまで俺が知ることがなかったように。

故人に対してこういう物言いをすれば批判は避けられまい、という懸念と、思考の整理が追いついていなかったこと。

それらもあのnoteを書くに至った、複雑に絡み合う要素の一つでしたが……結局、つまるところ、要するに。何が言いたいのかというと。

俺が書いたnoteの半分は、Hagex氏の表現スタイルに対する追悼文です。

氏がいかなる意図であのスタイルを選び、ブログを運営していたのか。その真意は本人にしかわかりません。たとえ本人の口から聴いたとしても、真実性の保証は不可能です。

Hagex氏を悼む方々の記事にある氏の姿が真実なのか、それともブログに投影されたあの表現スタイルがそうなのか。

はたまた、どちらも混在して成り立っている個なのか。

今となっては、それを確かめる術はありません。ともすれば、生前であっても……。

すべての人にネットは現実そのものだと直視してほしい

インターネットには、いつでもいくつでも、好きなだけ人格を置くことができます。

そして一度でも置いてしまった人格は、誰かの記憶に残っている限りは生き続けます。それを望もうと望むまいと、半強制的に。

元が断片的なものであったとしても、「この人は攻撃的で悪辣だ」と認識されたなら、その評価は長く尾を引くことになります。ときには、恨みや敵意をはらんで。

ほとんどの人は、一度そう認識した人の記事なりを深く読み込んでまで、人となりを精査したりはしません。アポを取ったり、直接対話を交わして確認することもありません。

実際にアポを取られても、それはそれで困るでしょうが……。

ともすれば「敵」と見なしかねない認識をされてしまうと、それを覆すのは難しい。

ネットと現実が別物だと錯誤してしまうと、そのことを失念しがちです。

Hagex氏もまた、ネットは現実とは別物だと、どこか奥深くでは錯誤していたのかもしれません。もちろん、これに関しては俺の憶測です。

ただ、氏は年齢的にも「ネットは現実とは隔絶した別の世界」という空気の濃かった過渡期を生きてこられた方です。氏を知る方の追悼記事の中には、「刺されるとまでは想定していなかったのかもしれない」という内容が書かれているものもありました。

――。

現実での本人がどのような人物であっても、ある方向性を持った印象を抱いてしまった人にとっては、その印象自体がその人そのものになります。ネットでなら、特に顕著に。

他人が抱く印象の完全な制御は不可能ですが、それ以前の、基本的な方向性までなら自分で決められます。

改めて、ここであのnoteの記事を読んでみてください。

あなたは、言葉という魔法をどう使うのかを自らの意思で選び取ることができます。

インターネットという現実において自身がどう振る舞うのか、そして何を振りまくのか、その大半を自由に選ぶことができます。

その言葉を選ぶ必要はあるのか、そこに愛はあるのか。

愛があったとしても、それを向けた受け手にとっては単なる凶器になっていないか。

そのことを、実名だろうと匿名だろうと、ネットで何かしらの発信活動をするなら刻み付けておいてほしい。これは願いではなく、祈りでもなく、ただの嘆きです。

自由な表現の萎縮は望みません。でも、わかっていてやるのとそうでないのは、まるで別物のはずだから。

あなたは言葉の魔法を誰に、どう、何のために使いますか?

確定した過去は変えられません。少なくとも、今の人類には不可能です。

人の生死に「もし」はなく、どれだけそれを語ろうと語り尽くそうとも、亡くなった方が生き返ることはありません。

それなのに、考えずにはいられない。

もしHagex氏が、伝えたいことの意味としてはまったく同じことを、まったく別の表現で伝えるスタイルだったなら。

氏を追悼する方々の記事で語られるその姿を、そのままブログにも表していたなら。

その可能性を考えないでいるのは、どうしても俺にはできませんでした。

だから、今、すべての人へ問いたい。

どこにでもいるあなたへ。

画面の向こうで、インターネットにつながっているどこかで。誰とはわからないけれど、今もたしかに息をしている、そんなただ一人のあなたへ。

あなたはいつも言葉の魔法を誰に、どのように、そして何のために使っていますか?

結びと各方面へのお詫び

一見するとHagex氏に対する否定や批判とも解釈できる内容を含んだこの記事によって、氏に近しい方々を傷つけたり、不快な思いをさせてしまうかもしれません。

そのようなことがあれば、心よりお詫び申し上げます。

人と人との関係性は複雑かつ難解であり、不幸にもインターネットを介して攻撃性、あるいは受け手によっては攻撃性と感じられる要素が煮詰まった結果、今回の事件につながったと考えています。

本稿は「どうすれば事件を防げたか」といった議論をするものではなく、またHagex氏に対する否定や批判でもなく、広く「ネットは現実そのものだ」というメッセージを伝えるものだとご理解いただけると救われます。

最後になりますが、仮にも同じ「はてなブログ」のサービスでブログを書いているブロガーとして、Hagex氏に心からの哀悼の意を示すとともに、ご冥福をお祈りいたします。