PARABELL LIFE

ゆる哲学と丁寧の“Co民家”を運営するフリーランス・パラベルのポータル×コラムブログ

何を差し置いても幸せでいてほしい人がいるなら、人生は素晴らしい

祈りと願いと想いのしずく

何を差し置いても幸せでいてほしい――誰かに対して、そんな祈りとも願いともつかない切なる想いを抱いたことがあるだろうか。

それほどまでに想いをかけられる誰かが在ったなら、それだけで人生は素晴らしいものだと信じて生きていけるはずだ。

その誰かが幸せであることが自分の幸せだから、つまりは自分を差し置いているわけではない……という禅問答は、今は脇に置いておこうか。

自己中・自己満の行き着く先は深い孤独だ

自分がよければそれでいい、そういった行動原理の人はそれなりにいる。

彼らは他者の事情や都合、もっと言えば心を顧みることをせず、しばしば自己中と呼ばれて嫌われがちだ。

本人にはそのつもりがなくとも、例えば相手に配慮しているつもりでもそれ自体が自己満足的であり、結果的に自己中と見なされる人もいる。

人は基本的に自分の価値観を軸に生きているものだから、誰しも多かれ少なかれ自己中と感じる部分はある。自己満足的な生き方をしてしまうのも、当然ではある。

とはいえ、その程度を自分と他者のどちら側に寄せるか、あるいは中庸を保つかは、もちろん自分で選ぶことができる。

自己中を自認して好き勝手に生きるのか、無意識でも自己満足的な押しつけを続けてしまうのか、それともまだ見ぬ第三の道に歩を進めるか。

替えの利かない自分を大事にするのは、それ自体は悪いことではない。当然、と言い切ってもいいだろう。

何につけても自分の感情や利益を最優先に生きるのは、単純に楽だろうし、それなりの楽しさや満足感もあるのは事実だ。全否定はできない。

ただ、そんな生き方の最後に待っているのが何かを考えると、暗澹たる気持ちにならざるをえない。そこには、取り返しのつかない暗く深い孤独があるだろうから。

他者との共有で満足領域は拡大する

自己中・自己満足的な満足感の上限を、例えば100としよう。

どれだけ一人で追い求めようとも100の上限を超えることは決してなく、孤独の未来もまた避けられない。

ところでどうだろう、あなたにとって大切に想う誰かが幸せそうにしているとき、あなた自身も幸せだと感じるはずだ。

その人はあなたに満足感を与えてくれるのだから、すなわち互いの満足感の円が重なっている状態になり、そこに一人では得ることのなかった新たな「満足領域」が生まれる。

そういう具合に、幸せであってほしいと想いをかけた人の数だけ、100で打ち止めだったはずの上限を超えていく。そう、その幅はいくらでも大きくできるわけだ。

とりわけ何を差し置いても幸せでいてほしいと、そう祈りとも願いともつかない切なる想いを抱いた大切な人がいるなら、人生にそれ以上のことはない。

ごく稀ながら、満足領域を加算ではなく乗算してくれる、光の中でも輝く光のような出会いがある。その可能性があるだけでも、人生は捨てたものではないだろう。

誰もが思い込みの枷を解き、この社会の在り方、そして自らの向き合う姿勢を再確認しなければならない。

何を差し置いても幸せでいてほしいと想える価値

人生とは何か――それは有史以来の遠大な問いだ。

考えても詮のないことだと理解しているはずが、しばしばその問答が思考を占める。

答えは誰かに与えられるようなものではなく、疑問を抱いた各々がいつでも好きなように結論し、これだと決められる。

自由だからこそ人は迷い、悩み、これと定めたのも束の間に、また見失ってしまう。

お気に召すかはわからないが、こんな答えもある。

人生とは、何を差し置いても幸せでいてほしいと、そう想いをかけられる誰かを探す旅のようなものなのかもしれない。

その想いは関係性の種類を問わず、心の相互性も物理的な距離も一切において影響することのない、祈りと願いがない交ぜになった純粋極まる美しき愛の形なのだ。

期待するには残酷で、絶望するにはまだ優しいこの世界を、誰もが幸せでありたいと望んで彷徨っている。

あらゆる理不尽が渦巻く地獄のようでありながら、それでもこの世界は、人生は、きっと素晴らしいものだと信じたい。

なぜなら、替えの利かない大事な大事な自分を差し置いても幸せでいてほしいと、そんな想いを誰かに抱ける可能性が残されているのだから。