PARABELL LIFE

ゆる哲学と丁寧の“Co民家”を運営するフリーランス・パラベルのポータル×コラムブログ

怒った顔まで愛おしいと思うなら、弥終の愛を信じてみればいい

怒った顔まで愛せたら

一般的に、人は怒りの表情を向けられるのを嫌う。

それは敵意や反感、警戒心の表れであり、もっと言えば攻撃も辞さないとの強い意思表示でもあるからだ。

そう考えてみると、大切な人の怒った顔まで愛おしいと思えたら……どうだろう、そこには豊かな心の余裕に裏打ちされた、深く確かな愛の気配を感じ取れそうだ。

それは最後に愛が勝るかどうかの試金石

生涯の伴侶を選ぶとなったとき、何があっても最終的に愛が勝るかどうかは重要だ。

関係を良好に保つには、妥協や契約的な約束事、ゆとりあるパートナーシップの類も有効ではあるものの、愛による結びつきは基本であり本質でもある。

この人と連れ添う未来はいかなるものかと思いを馳せて、最後に残るは愛か憎しみ、はたまた埋めようのない虚無感か。

それを占う試金石となるのが、その人の怒った顔まで愛おしいと思えるかどうかだ。

怒った顔を見るのが嫌だとしても、怒りを上手に受け止めたり受け流したりできるなら、あるいは衝突せずに暮らしていけるなら、さほど問題にはならないだろう。

それができず、怒らせないようにと神経をすり減らし、あるいは衝突を重ねて酷く消耗したりするようなら、明るい未来はまず期待できない。

相手の怒った顔を見たとして、それでも愛おしいと思えるか。

誰もが例外なく、良いところと難しいところを持ち合わせているものだ。

それらをひっくるめた上で隣を歩いていけるかどうかは、これだけでも判断できる。

愛は絶対にして絶対ならざるもの

ここでいう愛というのは、情愛、友愛、性愛、人間愛……およそ考えられる限りのあらゆる愛の種類を、包括的に指してのことだ。

愛があれば何もかもが上手くいく、わけではない。

そう都合のいい話が成り立つのは物語の中だけで、あらゆる感性が個人差に左右されるように、愛の概念もまた同様だ。まったく同形同質の愛は、見つけられない。

自分にとっての愛の在り方は、あくまで自分だけのものだ。相手のそれと必ずしも一致するとは限らない。

困ったことに、相手の心に届かなければ愛は一種の暴力に変質し、互いに抱いている想いとは裏腹に、ただ傷つけ合うだけで終わってしまう。

愛は強固にして脆く、強靭に結びつきながらもたやすくほどける天邪鬼。

そんな心の機微たる愛が絶対であり続けるとしたら、確かな愛を認めたそのままに、命の時間が止まったときくらいのものだろう。

この掴みどころのない概念をどうにかして確かなものへと昇華したいと、きっと誰もがそう願い、しかし思うに任せないままでいる。絶対ならざる愛に、翻弄されていくのだ。

もしも怒った顔まで愛おしいと思えたら

二人で選んで進んだ未来でも、描いた理想が花咲く保証はどこにもない。

未来のことは、わからない。

心を満たす想いと願いが確かに愛を告げようと、どこかの未来でいつかの愛が色褪せて、やがて恨みつらみの嘆きに変わらないとも限らない。

それでも、もしも怒った顔まで愛おしいと思えたら、信じてみるといい。

あまねく可能性の糸の中から未来を手繰り、弥終(いやはて)に連なる二人の道を今ここから紡ぐのだと。

有限の命の時間を燃やすに足る、言葉にできない心の温度を灯すのだと。

生まれた意味も生きる理由も人生の価値さえも、すべてはこの瞬間のためだけにあったのだと、そう心から信じるに値する時間を過ごせたら。

人生に降り積もるあらゆる事象が意味を得て、二人を渡る大切な記憶となるはずだ。

見も知らぬ誰かであってもそうして幸せであってほしいと、どうしてだか、身勝手にもそんなことを願ってしまうのだ。