PARABELL LIFE

ゆる哲学と丁寧の“Co民家”を運営するフリーランス・パラベルのポータル×コラムブログ

自分や大切な人が明日死ぬかもしれない、と考えて今日を生きること

明日への道が途切れたら

自分や大切な人が明日にも死んでしまう可能性は、常にある。

そんなことを日頃から考えて今を生きている人が、はたしてどれだけいるだろうか。

何気ない日常に埋没し、伝えられることのなかった想いや言葉たちが、行き場を失った心の声の残滓が、絶えることなく生まれては虚空に吸い込まれて消えていく。

死ぬならすべてがどうでもいい、ただ一つを除いては

明日にも自分が死ぬと知れば、大半のことはどうでもよくなってしまう。

取り組んでいる途中の仕事も趣味も、結果的に放り出すことになる気まずさや申し訳なさはあるにせよ、死の境を越えた瞬間に自分ではもうどうしようもなくなる。終わりだ。

死後の世界なるものがあろうがなかろうが、相互干渉も認識もできない以上は、どうしようもないことに変わりはない。

文字どおり、死んでしまったならしょうがない――お互いに諦めるほかないわけで、何にせよすべては事実上無関係なものとなる。

死後に困る人を少しでも減らすためにできることは、もちろんある。それでも、現世の主役はまだ生きている人たちだ。

今後のことは彼ら生者に任せておき、死者は大人しく眠りにつけばいい――ただし、死は心を通わせた誰かとの別れでもあり、それだけは別の話になる。

単なる知り合いや友人の域を超えた、特別な人たちの心に残るものを想ったとき、今日をどう生きるかが持つ意味合いは大きく変わってくる。

明日死ぬかもしれないからこそ絶対に今日やっておくべきことが、確かにあるのだ。

互いにとっての「最後のその人の記憶」になる

明日、あなたは不慮の事故で死んでしまうとする。

そうなった場合、大切な誰かに向けた今日までの言葉や態度が、その人にとってあなたを形作る最後の記憶として残る。

あなたにとって大切な誰かが、同じく明日までに死んでしまうとしよう。

その人に向けた今日までの言葉や態度が、特に直前のそれが、あなたがその人に持たせて送り出す死出の土産となり、その記憶を生涯背負うことになる。

それが本心とはかけ離れた心にもないものだったとしても、時間が戻ることはなく、取り返しのつかない結末を迎える。

どうしてあんな酷いことを言ってしまったのか、冷たい態度を取ってしまったのか。

本当はもっと伝えたいことがあったのに、これほどまでに大切に想っているのに、なぜ素直に言葉にできなかったのか。

本心に根付いた想いからの距離があるほど、不本意な言動であるほど、呪詛となって残されたその人を縛り、あるいはあなた自身が永劫の悔恨を過ごすことになる。

仮に避けがたい死の未来を予知したとして、伝えようとするところは同じだろうか? 選ぶ言葉や接する態度は? よくよく考えてみてほしい。

生ある今日のうちに、心からの言葉と態度を送ること

明日死ぬかもしれないと思えば、実際にはそんなことにはならずとも、伝えようとするところやその言葉選び、接する態度を見直せるはずだ。

事は、生死の別に限らない。

死別に等しい痛みを伴う離別やすれ違いを繰り返して、人は生きていく。

それはきっと、今日が最後かもしれないという真に迫るような危機感を日常の中には持てないからだろう。

今日の続きの明日が訪れようと、運命が明日を死の顎へと誘おうとも、実のところあなたが取るべき一手は変わらない。

明日の未来がどうであれ、できるすべてを尽くしてかけがえのない今を生きること。そんな陳腐極まる答えの中にこそ、意外にも普遍的な真理が眠っているものだ。

さて、今からできる真っ先にやるべきことがある。

それはあなたを取り巻くあまねく大切な人たちに、素直に感謝と愛を伝えることだ。本心からの想いを、言葉と態度を尽くしてありのまま届けることだ。

やるとしたら、今しかない。

幻影めいた不確定の明日とは違い、現に生きている今日をおいてほかにないはずだ。