PARABELL LIFE

ゆる哲学と丁寧の“Co民家”を運営するフリーランス・パラベルのポータル×コラムブログ

生まれた意味も生きる理由も自分で決めて、最期に確かめるほかない

意味も理由も自分で決める

生まれてきた意味はあるのか、人が生きる理由とは何だろう。

そんな疑問が頭に浮かび、物思いに耽る……別に思春期に限ったことではなく、誰にでもそんな時期は訪れる。

もし誰かがこの問いかけを携えてきたとして、答えは「意味も理由も特にない、それは自分で決めるものだ」などと、いささか突き放したようなものになってしまうのだろう。

実のところ、人生には意味も理由もない

まったくもって身も蓋もない話、残念ながら人生には意味も理由もない。

いわゆる神のような上位存在の実在性は否定しきれず、この世界が高度なシミュレーションなのだとしたら、個々人に存在理由が与えらえている可能性も否定できないだろう。

そうだとしても、それだけでしかない。

仮に神が実在しようが、この世界がシミュレーションだろうが、この人生には何ら影響しない。それが現実だ。

神がいようがいまいが人は死んだら蘇らず、この世がシミュレーションでも人生は続いていく。いつものように社会は周り、ケガをすればもちろん痛い。

意味や理由を考えること自体には得も言われぬ妙味があっても、誰かに答えを求めるのは詮のないことだ。なぜなら、その答え自体がどこにも存在しないのだから。

少なくとも、今はまだ万人に正解と言わしめるような絶対的な解は出されていない。

あえて探す旅には出ないで生きる

意味も理由もないのなら、それは裏を返せば好きに設定できるということでもある。

これだと信じられる意味、納得できる理由を、自分で決める。

その深遠を極める探求の旅は、ともすれば人生の時間すべてを注いでも答えを得られるとは限らない、長い長いものになるだろう。

人それぞれに異なるそれが、いつどこで手に入るのか、そもそもあるのかどうかすら、誰にもわからないのだ。

日々の中で目につくすべてが意味を匂わせ、あらゆる事象が理由を装う。

その中から、どれを選べばいいだろう?

基準は? 根拠は? より優先したい何かを見つけたとしたら?

終わりの見えない問答は続き、人生はますます混迷を深めていくだろう。

先人たちに言わせれば、求めてやまないその手のものは、しばしば旅に疲れて視線を落としたその先――つまり、足元に転がっているらしい。

そう、下手に旅になど出ず、足元を見るほうがかえって近道になるのかもしれない。

結局のところ、重要なのはどう生きるか

難しく考えるのはやめて、これがそうだと決めてしまえばいい。暫定でも構わない。

本来ならば存在しない意味や理由を手に入れるために、無理に捻り出そうとするのがそもそもの間違いなのだ。

仮のものでも使い込めば本物になるかもしれず、どうしてもしっくりこないと思えば、変えたくなったときに変えればいいだけだ。

今あるカードの中から最も答えに近いものを選んで前に進むか、あるかどうかも定かでない何かを探す、終わりの見えない旅を納得できるまで続けるか。

結局のところ、真に重要なのは意味や理由そのものではなく、生き方だ。

生まれてきた意味はあるのか、人が生きる理由とは何だろう――そういう命題の答えは、血眼で探し回れば見つかるものとは違う。むしろ、その反対だ。

生き方が紡ぐ人生行路の最果てで、ようやく意味が色を持ち、理由の形が映される。

あるいは日常の中に眠るかけがえのないものを見出せたなら、意味も理由も染み渡るように理解できるはずだ。