PARABELL LIFE

ゆる哲学と丁寧の“Co民家”を運営するフリーランス・パラベルのポータル×コラムブログ

逃げるか留まるかは、逃げた自分を好きでいられるかどうかで決める

逃げるは恥ならずとも

逃げるべきか、それとも踏みとどまって立ち向かうべきか、それが問題だ――長い人生の道中で、そういう場面に何度も出くわす。

必ずしも逃げるのが悪いとは限らないが、逃げた自分を嫌いになりそうなら、敗北は明らかでも立ち向かう価値はある。

少なくとも自分に負けなかった事実だけは残るだろうから、それで自分を嫌いにならずに済むのなら、その差は途方もなく大きなものになる。

必ずしも逃げるのが悪いとは限らない

あらゆる出来事から常に逃げ続けるのはまずいが、明らかに逃げるべき場面はある。

逃げなければ(物理的に)死ぬ状況だとか、話の通じない相手に絡まれたとか、一方的な搾取で終わるブラック企業などは、逃げる以外の選択肢はない。

事情がどうであろうとも、逃げるべきときに無理をして耐えようとしてしまうと、その後の人生に重大な後遺症を残す。

それが肉体的なものであれ精神的なものであれ、人生における貴重な時間と機会の多くを失うことになり、大体において取り返しがつかない。

20代の前半にブラック企業で消耗した俺の場合、薬の世話になりつつ働いては引きこもる生活を2年間も続け、更に3年間を引きこもりとして過ごした。

その過程で得たものは人生の糧になってはいるものの、それでも健康な20代のうち、半分以上を失った事実は大きい。

逃げるべきときに逃げるのは、恥ずかしいことではない。それは人生、すなわちこの社会を生き抜くために必要な手段であり、必要に応じた逃走をして「戦略的撤退」と呼ぶ。

逃げた自分を好きでいられるか

これは実に重要な観点で、逃げるか踏みとどまって立ち向かうかで悩んだときは、「逃げた自分を好きでいられるか」を基準にすると腹が決まりやすい。

逃げた事実が自分を嫌いにしてしまうなら、後悔を抱える人生になってしまうなら、文句なしに鋼の意志で踏みとどまって立ち向かうべきだ。

その結果がどれだけ悲惨なものになろうとも、完膚なきまでに叩きのめされようとも、それでも絶対に逃げたくないのだと、心の底から沸き立つ想いがあるならば。

自分に誇れる自分になるためにどうあっても戦う道を選ぶと決めた誰かを、どうして止められようものか。

そうと心を決めたなら、己の持てるすべてを引っ提げて、あまねく可能性も犠牲をも振り払いながら、信じたその道をただひたすらに、征け。

そうして手にした未来がいかなるものであろうとも、仮にすべてを失い後悔にまみれたとしても、少なくともただ一つ、自分に負けなかった事実だけはいつまでも残るはずだ。

今こそ抗え、悔いある生を駆け抜けるために

悔いなき選択――それができれば、どれほどいいだろうか。たやすいものではない。

後悔は、必ず事の終わりに押し寄せるものだから。

最善の選択をしたはずでも、ベストを尽くしたはずでも、それでも後悔を連れて来ないとは限らない。結果がどうなるかは、最後の最後が過ぎるまではわからない。

過程がどうであっても、望んだ結果を手にできなければ多かれ少なかれ悔いは残る。すべてを割り切ろうとしても、実際は難しい。

できることはあまりにも少なく、選択に意志を刻むくらいだ。

自ら選び取った道の果て、そこにある結果を誇れるように。成功と失敗のすべてを受け止めるのだと、選んだ道に意志を刻めば、やらないよりは幾分かマシだろう。

逃げた自分でも好きでいられるなら、未来のために必要だと信じる戦略的撤退なら、脱兎のごとく逃げればいい。逃げの一手も、悪くはない。

そうでないなら、逃げれば自分を嫌いになってしまうなら、今こそ抗え。

自分に誇れる自分になるために、悔いある生を駆け抜けるその力を手にするために。