PARABELL LIFE

ゆる哲学と丁寧の“Co民家”を運営するフリーランス・パラベルのポータル×コラムブログ

期待するには残酷で、絶望するには優しいこの世界を生きること

この残酷にして優しい世界

この世界の気難しさたるや、一体どんな表現で説明すればいいのだろう。

期待すると残酷に返してくるわりに、絶望するほど優しさがないわけでもない世界。

優しく微笑んだかと思いきや、次の瞬間には容赦なく地獄まで叩き落とされる、そんな二面性のあるこの世界を僕らはこの先も生きていかねばならない。

事象は常にただ降りかかるだけのもの

複雑に織り込まれた因果を解き明かし、我が身に降りかからんとする事象のすべてを読み解けるだろうか?

そんなことは、ほとんどの人には不可能な芸当だ。

あらゆる事象に意味らしい意味はなく、銘々が与え持たせた意味を繰りつつ、個々の解釈で今をただ織っているだけだ。

さながら機械的なランダムパターンのパズルゲームのように、意味もなく降りかかるだけの事象にただ翻弄されている限りは、この世界は残酷なものに映るだろう。

何を残酷と感じて、何がその目に優しく映るのか。

誰もが自由にそれを決める権利を持ちながら、別の誰かに強いられていたりもする。

期待するには残酷で、絶望するにはまだ優しいこの世界は、今日も淡々と中庸を貫いているだけに思える。

運命は誰一人として贔屓をしない

運命という言葉は、いつもそれぞれの都合に合わせて他責的に使われる。

まるで出来事の良し悪しすべてが運命様の手のひらの上にあるかのように、ある人は感謝を捧げ、またある人は呪詛を唱えるのだ。

生まれ持った運不運、例えば裕福で愛に満ちた家庭があれば貧しく暴力的な家庭もあるのだから、たしかに運命の不条理を感じてしまうのも無理はない。

不遇にまみれた道程にどれだけ前向きな意味づけを施そうとも、過去の傷跡は消えることなく残り続ける。

この世は常に不公平だ。見えざる手の采配めいた気配を感じた瞬間が一切なかったかと問われれば、ここに至っては「ある」と答えたくもなってしまう。

ただし仮に「それ」がいるとしても、こちらが向けた祈りは届かず、切なる願いが叶えられることもない。

運命、因果、巡り合わせ――そんな意味ありげな概念でさえも、人による意味づけの一つにすぎない。少なくとも、人の身でどうこうできるような代物ではないことは確かだ。

この残酷ながらも優しい世界を生きるには

この残酷ながらも優しい世界を生きるには、僕らはあまりにも不器用だ。

誰もが希少な上澄みたる優しさを求めて彷徨い、互いの孤独と渇きには気づかない。

孤独が、渇望が、与えるよりも奪わせようとする。

優しいだけではいられない。

本来ならば与えてこそ癒えるものであっても、そうと気づくのは難しい。

自分の中にも同じように誰かの孤独を癒せる愛が、優しさがあるのに、それを知っている人は悲しいことにあまり多くはないのだ。

期待するには残酷で、絶望するにはまだ優しい――そんなこの世界も、いつかはひたむきな優しさを湛える新世界に生まれ変われるだろうか?

もし未来がその分岐へと進むとしたら、それは内在する愛の真価に気づいた人たちがついに運命の概念を克服し、残酷に抗う想いで優しさと世界を縫い留めたときなのだろう。